バーチャル御朱印巡り

御朱印を画像で無料頒布します。

こちらのページでは、令和元年に初開催された「吉原祇園祭六社御朱印巡り」とのコラボにより、各神社の御朱印を画像にて無料頒布いたします。「#おうちで吉原祇園祭」の開催記念に、令和二年吉原祇園祭御朱印をスマホやPCにぜひ保存してください。

 

バーチャル六社御朱印巡りをお楽しみください。

吉原祇園祭は、天神社、木之元神社、八坂神社、八幡宮、山神社、和田八幡宮の六社合同で開催されているお祭りです。実際の六社御朱印巡りではこの六つの神社を巡っていただきましたが、「#おうちで吉原祇園祭」では、1週間に1神社のペースで画像を掲載していく予定です。各神社のストリートビューも載せていますので、バーチャル六社御朱印巡りをお楽しみください。


吉原天神社

祭神 日子番能瓊瓊杵命(ひこほのににぎのみこと)、菅原道真公

 本町一、二、三丁目、幸町、大和町、宮町、南町の氏神として祀られている。

 

天神社は六社の中で最も古く、元吉原に宿場があった時代から吉原の総鎮守として祀られてきた。外一柱創建の年代は不詳なれど、往古元吉原見付宿にて祀られていた古社であり、建久四年(一一九三)源頼朝公、天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉公が参拝されたほどの大社であった。

 

されど度重なる天災により余儀無く遷座、天和二年(一六八二)現在の地に祀りて以来当時の鎮守「天神さん」として崇敬を集め、年々歳々社頭は賑わい殊に学問の神の御神徳により、数多くの受験生が参詣に訪れる。現今の本殿は寛政元年(一七八九)の造営である。


木之元神社

祭神 木元大神(キノモトノオオカミ)

新追町、西仲町、日吉町一、二、三丁目、昭和通、住吉町、六軒町、西本通、伝馬町の氏神として祀られている。正確には木元神社。

 

鈴川木之元神社から勧請、数度の遷座を経て現在地に定まる。江戸期は「木元大権現社」などと称された。

 

東海道吉原宿は、寛永十六年(一六三九)高波で被災し、鈴川今井(元吉原)から依田橋(中吉原)へ所替えした。このとき多くの社寺は宿とともに移転したが、鈴川木之元神社は地主神として残されたため、分霊が中吉原に祀られた。これが当神社の創祀と伝えられる。

 

天和元年(一六八一)、中吉原宿が高潮にのまれて壊滅。翌年から吉原(新吉原)へ再び所替えが始まり、木元神社も遷座した。その後、神社の所有権をめぐる争いがあり、寺社奉行所の裁定の結果「地元の産土神」とされた。

 

昭和三十年代、吉原高等女学校移転による跡地整備に伴い現在地へ遷座。境内東側には、赤鳥居がつらなる稲荷神社(境内社)も鎮座している。



依田原山神社

※山神社はストリートビューで神社正面へ行けません。ご了承ください。

山神社は、依田原の氏神として祀られている。現在、依田原一、二、三、四丁目と四町内で三つに分かれて吉原祇園祭に参加している。

 

吉原祇園祭では二日目の朝、浜降りに行き潮水を汲んでくる。潮水は神輿にかけたり、各戸に配布された潮水を神棚等に供えるのが一般的だが、依田原では神輿が家の前を通る時、神輿に向かって潮水をかけて神輿を清める習慣がある。

 

神輿には大量の笹の束が備えつけられ、氏子達は厄除けとしてその笹を神輿から取って家の玄関先などに飾る。

 

神輿は町内ごとに保有しており、隣接する各町内の神輿が町境の辻で激しく競り合う「けんか神輿」を行う。

 


八坂神社

祭神 建速須佐之男命

当社は嘉永六年(一八五三)、当時悪王子神社(現、依田橋左富士神社)の氏子であった東町(現東本通り一、二丁目)の住民が牛頭天王をこの地に勧請し牛頭天王社として創建した。

 

神仏習合時代、牛頭天王と須佐之男命は習合され、命を天王さんと称し、除災、疫病退散の神として崇めていたが、明治元年神仏分離の政令により、名を八坂神社、祭神を建速須佐之男命と改め現在に至る。



東本通八幡宮

祭神 応神天皇

八幡宮は東本通り三丁目の氏神として祀られてえいる。

 

第十五代天皇である応神天皇は武神、神功皇后の皇子で皇后と共に国内を平定し、帰化人の渡来、大陸の文物、技術の導入などを盛んにした文武の神様である。向かうところ敵なしの力にあずかり、勝ちを授けてもらおうと、合格祈願・交通安全にご利益のある神様として、人々の崇敬を集めてきた。


和田八幡宮

祭神 応神天皇

今泉地区和田町一、二丁目の氏神として祀られている。

 

和田町は昭和中頃に吉原祇園祭から一時的には離れて、しばらく独自で祭りを行った時期もあった。

 

八幡宮は応神天皇を御祭神する神社の称号。「八」は大八州の義、「幡」は三韓降伏の軍功によって称するとも言われ、一説には弥畠(ヤハタ)の地名とも言われる。又、天より八流の旛の降下によると言われている。全国の八幡宮は宇佐神宮をもって本宗とし、清和天皇貞観元年に大安寺僧行教の奏請によって山城国男山に勧請、後冷泉天王朝に頼朝はこの男山に分霊を奉じて相模国由井郷に勧請したのが鎌倉の鶴岡八幡宮であり、武士の登場と共に全土に鎮祭をみるに至った。

 

明治八年二月十八日村社に列せらる。